総持寺縁起

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    茨木市には「総持寺さん」と親しみを込めて呼ばれるお寺さんがあります。

     

    その総持寺は、西国三十三所巡礼二十二番札所として多くの人が訪れる名刹です。

    高野山を本山とし、千手千眼観世音菩薩が御本尊です。

     

    ところが私、50年以上も茨木の地に住みながら何故か一度も訪れたことがなく、

    一度は参拝しなければと思っておりました。

     

     

    今年は、茨木市が昭和23年に市制を敷いてから70年の節目にあたり、記念行事として

    10月6日から12月3日まで「総持寺展」を開催されることとなりました。

    場所は「茨木市立文化財資料館」(入館無料・阪急南茨木駅近く)です。

     

     

    10 月6日、開会の日に行ってきました。

     

    総持寺住職、中西隆英氏の講話と同時に、山蔭流包丁式がありました

    ご住職の説話が大変興味深いものでしたから、長いのですがご紹介したいと思います。

     

    総持寺開創にまつわる霊幻譚(れいげんたん)には、絵巻が3本もあるそうです。

    江戸時代の絵師「海北友雪」描く巻物からお話を伺うことできました。

          (かいほうゆうせつ)

     

     

    鎌足から数えて8代目の藤原高房(中納言)は太宰府へ長官として赴くことになりました。

    住居のあった京都から、家族郎党とともに船に乗り淀川を下ったそうです。

     

    当時は茨木の穂積で下船して一泊したそうですが、隆房の息子山蔭はまだ幼少でしたから

    岸から放尿しようとして川に落ち、沖へと流されたのだそうです。

     

    この時沖から1匹の亀が現れ、山蔭を拾い上げ背に乗せて、岸へと助け上げたと言います。

    実はこの亀、隆房が以前助けたことのある亀だったのですが、観音様のおかげだと確信した

    隆房は名木で観音様を彫ろうと決心されたそうです。

     

     

     

     

    太宰府に着いた隆房は、唐へ渡ろうとしていた遣唐使に観音様を彫る「名木」を買い求めるよう

    依頼し、砂金の入った袋を手渡したそうです。

    遣唐使は名木を買い求めたのですが、唐側から名木を持ち帰ることを拒否されます。

     

    たいそういい匂いのする沈香という名木だったそうですが、いかしかたなく木を浜に打ち捨て

    帰国せざるを得ませんでした。名木には墨で理由を書いておきました。

     

     

     

     

    何年も後、やがて藤原山蔭自身も父と同じく太宰府に赴くことになります。

    ところが漁民からの訴えで、浜に光を放つ大きな木が流れ着いているので漁ができないと聴きます。

    子細を調べたところ、かって唐の浜に打ち捨てた名木であることが判明します。

     

     

     

    その名木を船に載せ、京都へ帰宅する途中のできごとです。

     

    名木を穂積からは牛に引かせて陸路運んでいたそうですが、途中牛が動かなくなりました。

    山蔭は「ここにお寺を作りなさい」という観音様からの知らせだと解釈したそうですが、

    この地が今の総持寺のある地点になります。

     

    さてこれからがお話のクライマックスです。

     

     

    名木が無事入手でき、伽藍の建設場所も決まったのですが、観音様を彫ってもらう仏師を

    探さなくてはなりません。

    誰にするか迷った山蔭は、長谷寺で祈願をいたします。

     

    7日目の夜にして、夢でお告げがありました。

    「明日の朝、一番に出会った方を仏師としなさい」

     

     

    さて山蔭が翌朝出会ったその人物は、ボロを纏った童子だったといいます。

     

     

    不審に思った山蔭が童子に何か彫って欲しいと頼んだところ、一夜にして五寸の十一面観音

    を彫り上げました。見事な出来栄えだったそうです。

     

     

    その童子に観音様を依頼することになるのですが、童子から二つの申し出がありました。

    一つは、彫り上げるのに1000日を要するが、その間山蔭自身が仏様の食事を作ること。

    第二に、仕事場(お堂)は誰も覗き見をしてはならぬこと。

     

    さて、1000日目、お堂から声がありました。

    「長谷の観音様は何処におられるや?」

    「おお〜、これは行基菩薩様、今帰る所じゃ〜」

     

    つまりボロを纏った童子は、長谷の観音様その方であったということです。

    お堂には、立派な観音様が出来上がっており、1000日分の仏飯もお供えされていたと言います。

     

     

    山蔭卿は仁和4年(886年)に亡くなられたそうですが、その後7男7女のお子様方が

    立派な伽藍を創建され今日に至るといいます。

     

     

     

     

    いかがでしたか、総持寺にこんな楽しい縁起物語(絵巻)があったことを知らなかったなんて

    一市民として恥ずかしい限りです。

    挿絵は総持寺からいただいた資料を私が、カメラで接写したものです。

     

    住職がおっしゃった「放尿」の部分が「継母が突き落とした」となっていました。

     

     

     

    もともと総持寺のあたりは、藤原氏の荘園のあった場所ですし、茨木市には藤原氏に関する伝承

    は沢山残っています。

     

     

    今昔物語のなかにも、亀の報恩譚としてこの話は書かれているそうですし、

    長谷寺縁起にも、源平盛衰記にも同じ話が見られるということでした。

     

     

    中西隆英・総持寺住職のお話の後、山蔭流包丁式を見学してきましたが、

    それについてはまた後日といたします。

     

    余談

    今年3月、JR京都線に「JR総持寺」駅ができました。

    新駅からも阪急の「総持寺」駅からも4〜500メートルの距離です。

    是非一度ご参拝ください。

     

     

     


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    名前を遊山といいます。   大阪府の北部に住んでいます。 京都にも近い山間部です。 近くには安威川が流れています。 川向うは高槻市になります。
    福祉施設の現場や学校などで介護を中心に60才まで就労しました。 今は家人と晴耕雨読の生活です。 ブログでは裏山に自生する植物や野鳥のこと、加えて地域の行事や小さな旅行など 紹介できたらと考えています。

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