がご存知でしょうか。(2月2日〜4月7日)
初めて円空仏を知ったのは、もう随分前のテレビ番組でだったと記憶しています。
仏像について持っていたイメージとはかなりかけ離れた、それでいて見るものの心を
惹きつけ離さないその強烈な個性に驚かされました。
今回その円空仏が160体も鑑賞できるということで行ってきました。
会場に入るとまず高さ2メートルを越えようかという金剛力士立像(岐阜県 千光寺)
に出迎えられます。
荒削りのしっかりしたお顔、下部は木材の部分が露になっていました。(撮影可)
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江戸時代、寛政2年(1790)に出版された「近世畸人伝」には、立木にはしごを立て
かけ、円空が像を彫る様子を挿絵入リで紹介しているそうです。
円空さんについて
円空は江戸時代前期に美濃国(今の岐阜県)に生まれました。7歳のとき水害で
母を失い出家し、修験僧として旅をしながら神仏を彫り続け、12万体彫ると誓
ったそうです。(現存する円空仏は5000体ほどです。)
40歳の時には、奈良の法隆寺において法相宗の法系に連なる僧であると認められ
48歳の時には、滋賀県の園城寺で天台宗寺門派の密教を継ぐ僧であると認められ
ています。
作風は最初の頃のすべすべした丁寧なものから、大胆でゴツゴツした作風へと変化
していくのですが、流木などをそのまま使い、そこに顔だけを彫るようなスタイルも見
られるようになります。
彫られた仏たちの表情がにこやかに笑みを讃えたものが多いのに気付かされました。
円空の仏像彫刻は、鉈で大胆に彫ったものだと聞いていましたが、実際には大小の
印刀を使い、法衣や顔の表情を細かく表している部分も多く見られ感動しました。
(撮影禁止の仏像が多く、細部をお見せできないのが残念です)
僧であり、同時に偉大な仏師であった円空のような人物に驚嘆するばかりです。
飛騨の千光寺の住職舜乘と意気投合した円空は、しばしば滞在して造仏しています。
円空は千光寺を開いたとされる両面宿儺(りょうめんすくな)の像も彫っています
この人物、日本書紀では大和朝廷に服さぬ逆賊とされているのだそうです。
しかし飛騨や美濃では土地を開拓し、豊かさをもたらした英雄として伝えられてます。
通常、両面宿儺像は背中合わせに二つの顔を持つ姿だそうですが、円空による像は
正面の武人の肩にもう一人の武人が乘りかかるような姿を示しています。
54歳頃 千光寺所蔵
千光寺近隣の村人が病のときに寺から借り出し治癒を祈ったという観音三十三応現身
立像が会場にずらりと並べられた様は壮観と言う他ありません。
54歳頃 千光寺所蔵
元禄5年(1692)岐阜県高賀神社でつくられた十一面観音菩薩立像及び
善女龍王像、善財童子像 は現存する円空仏の最後のものだそうですが、
この仏像を造った3年後に、円空は64歳でその生涯を終えています。
61歳 岐阜県高賀神社所蔵
不動明王及び二童子立像
54歳頃 千光寺所蔵
護法神立像
54歳頃・千光寺所蔵
最後は千光寺さん所有の円空像です。1805年 大森旭亭筆
仏像マップを見ると、岐阜・愛知を中心に関東から東北、北は北海道まで修行
の旅をされ造仏もなっているのを知ることができます。
この図の円空さんからはそんなとてつもないエネルギーが何処に秘められてい
るのだろうと思わずにはいられません。ではまた。
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馬酔木も今年は、小さな鈴のような小花を細い枝に沢山つけています。
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磯の上に 生ふるあしびを手折らめど 見すべき君が ありといはなくに
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足元では、カンザキアヤメも寒さに震えながらも健気に日々花をつけています。
この花、原産国は地中海域だといいますから驚きます。
アルジェリア・ギリシャ・クレタ・シリア・アラブ・モロッコ・チュニジア・トルコ
の岩場に咲く、と説明にあって想像するとびっくりです。
7〜8センチの花の中央に黄色い斑が入り、網目状の模様もあります。
この季節、葉の間から花茎を伸ばし花を咲かせますが、葉っぱの間に密かに咲きます。
常緑性で植えっぱなしでも毎年この寒い時期に必ず咲いてくれるのが心嬉しいです。
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最後は一寸面白いキノコです。ツチグリといいます。
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このキノコ幼菌時は土の中に埋まっているのですが、成長すると地上に出てきて外皮が星状に
裂けます。雨が降ると、丸いボール(内皮)のてっぺんに穴があき、胞子を飛ばすのです。
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学名にはギリシャ神話の星の神様アストライア(Astraeus)の名前が付いているのだそうです。
雨が降る前にでてくるので、キノコの晴雨計とも言われているのだとか!
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いかがでしたでしょう。
鈴蘭水仙やクロッカスの芽も出てきています。春はもうすぐそこまで来ているのだと思うので
すが・・・・。今日もお尋ねくださってありがとうございました。
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「七福神の宝の入舩」と「近頃河原の達引」の2本を鑑賞してきました。
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一般に親しみを込めて文楽といいますが、人形浄瑠璃文楽というのが正式名称のようです。
人形と浄瑠璃を語る太夫さんと、三味線担当の方とで成り立っている総合芸術なのですね。
ここだけは絶対に外せないと言う歴史好きの友人の助言で行ってきました。
吉水神社は元を「吉水院」(きっすいいん)といい、1300年以上も前の天武天皇の時代
に役行者が創設した格式高い修験宗の僧坊であったといいます。
明治に行われた神仏分離令によって、吉水院が、後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから
明治8年に吉水神社(よしみずじんじゃ)と改められました。
(楠木正成や吉水宗信も祀られています)
表門です。
門の 両サイドに菊の御紋の提灯がかかげられていました
表門をくぐると、趣のある日本家屋(日本最古の書院造り)の玄関前は、見晴らしの良い広場
になっいて、そこからは中千本から上千本まで、山桜を眼前に見渡せるようになっていました。
今は、桜の葉が紅葉していますが、春、全山桜が満開の時は素晴らしい眺めでしょうね。
檜皮葺きの書院
初期書院造りの代表的建物・国の重要文化財。ユネスコより世界遺産として登録されています。
義経の滞在
この館には、文治元年(1185)年、源義経が兄・源頼朝の追補を逃れて、愛妾静や弁慶を伴って
吉野入りしたたときにも使わたそうです。
義経や弁慶が滞在したという部屋や愛用品も展示されていました。
かの静御前が、こんな山深いところに隠れ住んでいたというのは、物悲しいですね。しかも滞在期間
は5日間で、義経はここから山伏姿に扮して弁慶と共に逃亡したのだそうです。
義経の間と弁慶思案の間
義経の愛用の色々威腹巻き(鎧)
後醍醐天皇の滞在
延元元年(1336)後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に行幸された時、この吉水院
の宗信法印が天皇をここにお迎えし、天皇もこのお部屋を南朝の皇居と定められて、ここに
吉野朝の歴史が始まりました。南朝は4代57年続いたそうですが、天皇は王政復古の夢を果
たせず、波乱の生涯をこの地で終えられています。
後醍醐天皇の玉座と御物
部屋の畳も、壁の絵画もとても綺麗で新しく見えますね。
実はこの玉座の間は、秀吉が花見の際に修繕寄贈されたもので、画家は狩野派の絵師です。
豊臣秀吉の滞在
文禄3年(1594)豊臣秀吉はその権勢を天下に知らしめた盛大な花見をここ吉野で
挙行しています。
5000人の家来と共に宴会は5日間開催されたと言いますが、初めの3日間は雨だっ
たそうです。各武将が趣向をこらし、歌会、茶会、能の会が催されました。
吉野の大花見の図
人物はしかと見えにくいですが、この中には徳川家康、伊達政宗、前田利長も描かれている
のだと思います。
伊達政宗が山伏に扮し、秀吉が茶屋の下男に扮して寸劇をしたとか。桜の下では無礼講とい
う習慣はこの時代に始まった?
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蔵王権現の特別御開帳が始まったから行きませんかと誘われて、拝観して参りました。
いきなりのスケッチ画ですみません!
今回初めて蔵王堂の中へ入り拝観できたのですが、写真撮影はできませんでした。
(コロナのときは入り口までだったそうです)
お堂の中では、護摩木が赤赤と焚かれ、僧侶の読経の声と太鼓が響き渡り荘厳な雰囲気です。
金峯山寺でいただいたパンフレットを読んで初めてその3体の権現の意味合いとその歴史的背景
を知ることができました。以下に要約してみました。
役行者と前鬼・後ろ鬼の像
中央のご老人は役行者と言います。左右に控えているのは行者を支えた前鬼と後鬼です。
今からおよそ1300年の昔、修験道のご開祖である役行者は、全国の霊山をご開山になった
後、熊野から大峰山の稜線伝いに吉野まで修行されること33度を重ねられ、最後に金峰山の
山上ヶ岳の頂上で、一千日の参籠修行をされました。
苦しみの中に生きる人々をお救いくださる御本尊を賜りたいと役行者が願われたところ、最初
にお釈迦如来、千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏がおでましになられました。
役行者はその三仏の柔和なお姿をご覧になって、このお姿では荒ぶる衆生を済度し難いと思わ
れて更に祈念されたところ、天地が鳴動し山上の大盤石が割れ裂けて、雷鳴と共に湧き出るが
如く、憤怒形相の荒々しいお姿の御仏がお出ましになられたのです。
権現というのは、神仏が姿を変じてお出ましになった仮のお姿だったのですね。
この御仏が金剛蔵王大権現で、役行者はそのお姿を山桜の木に彫刻し、山上ケ岳と吉野山にお
堂を建てお祀りされました。
山桜の木に役行者が彫刻されたことから、吉野山では山桜が神木として保護されています。
下の写真は現在の蔵王堂の全景です。
蔵王堂全景
「蔵王堂」は今までに幾度も焼失と再建を繰り返しているそうですが、1591年に豊臣秀吉
により再建されたものが現在の建物です。
単層裳階付き入母屋造り檜皮葺きで、高さ34m、裳階の四方36mの豪壮な建造物です。
木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇っています。
2004年には、その「文化的景観」の価値が認められ、ユネスコの世界文化遺産に登録され
ました。
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新酒試飲会などで酒蔵を訪れた方は多いかと思いますが、醤油蔵の見学はないという方
が大方ではないでしょうか。
見学の際、酒蔵に並んでいたのは、ホウロウ製のタンクだったのではないでしょうか。
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かって、醤油、酒、みりん、味噌、酢、などの発酵食品は、木桶で醸造されていたそう
ですが、生産コストを抑えるために現在はホウロウ製タンクに変わり、木桶での醸造は
全体の1%にも満たないそうです。
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小豆島に今でも木桶で醤油を醸造している「ヤマロク」という会社があります。
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本題に入りましょう。
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ここでいう「巨大おけ」とは、杉材で造られた桶。高さと直径が2メートルはあります。
32石といいますから、6000L。人が中にすっぽり入れるくらいの大きさです。
木桶は、100年から150年の長きにわたって使用できるそうですが、ヤマロクさんには
大桶が40、半分の大きさの桶が28、あるそうですが使用中の桶の半数は、戦前に購入
されたもので、やがて新しい桶の購入が必要となるそうです。
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しかし興福寺というのは広大なお寺さんですね〜。
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奈良が都に定められた和銅3年(710)に、時の右大臣藤原不比等が願い出て、春日
山麓のこの景勝の地に一族の繁栄を願ってお寺を造営したのが始まりと聞きますから、
随分と歴史のあるお寺なのですね。
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1300年の歴史の中で、度重なる災害や戦火を経て、幾度も再建されたお堂や仏像の
数々。その貴重な宝物が集められている「国宝館」を目指しました。
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良くぞこれだけの素晴らしく貴重な仏像群が、先の戦争でも消失することなく、残され
たものと奇跡を見るような気がします。
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運慶作の不空羂索観音坐像や、南円堂にあったという四天王像、法相六祖像、北円堂に
あった四天王像、平板な十二神将立像、十大弟子像、・・・
数々の国宝、重文、を鑑賞しながら最後に、目指す八部衆立像の前にたどり着きました。
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仏像は、如来・菩薩・明王・天部と四つのグループに分けられるのだそうですね。
この八部衆といのは、天部に属するのだそうです。
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それにしても名前といい、お顔といい、身につけておられる物といい、他の仏像とは随分
異なった印象なのですが、それもそのはず、元々は古代インドの異教の神々だそうです。
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八部衆というのは、8つの種族という意味だそうですが、異教の神々が釈尊に教化されて
仏法守護の善神となられた姿だそうです。
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まずは 五部浄(ごぶじょう)八部衆の「天」に相当する神
興福寺では最初にこの神を置く事によって天部像を総称する。
象の冠を冠っています、胸から下は失われています。
像高 上半身 50.0cm
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(高さ14.98メートル,座高7.48メートル)
上の大仏様は、富山県高岡市の大佛寺にある「大仏」です。
「だいぶつさん」といって慕われていますが、高岡銅器職人の技術の結晶といわれています。
高岡は鋳物の町として有名なのですが、ご存知でしたでしょうか。
鋳物というのは加熱して溶かした金属を型に流し込んで、金属製品を造ることと辞書にあります。
日本に鋳物技術が伝わったのは、弥生時代と推測され、銅鐸や銅鏡、銅剣などが出土しています。
古墳時代や飛鳥時代以降になると、各種の器や工芸品、仏像などが造られるようになりました。
高岡市の場合、江戸時代、加賀前田藩の前田利長が鋳物師(いもじ)7人を京都の丹波から招い
て市内(金屋町)に工場を開いたことが起源とされています。
私は、中学の2年生まで高岡市に住んでいたのですが、当時は(もう70年近く前になりますが)
同じ町内に、金属を流し入れる土の型を造ったり、出来上がった銅製の壺を火花を飛ばしながら
磨く小さな町工場が沢山あったのを覚えています。
当時、高岡銅器は分業体制によって成り立っていたようです。
原型の製作→原型をもとに型をとる鋳型製作→鋳型に溶解した金属を流し込む鋳造→溶接→研磨
→着色や彫金
色々な工程があり、仏具・茶道具・花器・火鉢・銅像・梵鐘など大小、色々な製品が生産されて
いました。
400年の歴史をもつ高岡の鋳物技術は世界的評価も高く、国際的な名声を得ているそうですが、
何時の頃からか斜陽産業だといわれて久しく、とても残念に思っていました。
ところがこの度高岡へ帰郷して、今や世界に羽ばたく鋳物製造の会社があることを知り、見学に
行ってきました。
高岡市の南部にある、オフィスパークなかにその会社はありました。
会社の名前を「能作」と言います。
錫100%の食器や、ぐにゃーっと曲げたり伸ばしたりできる変幻自在の器を造っている会社です。
力の入れ具合で角度や形が変形する
製造工程が総てオープンにされ、溶かした金属が煙を上げて鋳造されていく工場内を見学できました。
体験教室では、20人くらいの方が、型取りから花瓶を造っておられる姿もありました。
1階の展示場には、能作さんの傑作、自由に曲げられる錫製品のお皿や果物籠が並べられていました。
ここで能作さんの具体的な経営の方針をご紹介するのは無理ですから、会社の履歴を詳しく編集され
た本をご紹介をしましょう。
著者 能作克治 ダイヤモンド社発行
富山を離れて70年、
故郷のニュースを聞く度に、一喜一憂していた私ですが、こんな郷土の基幹産業を飛躍的に
発展させている製造工場があったことを知りませんでした。
経営者陣のご努力とアイディアで成し遂げられた偉業に感動しました。
400年の技術が生きていることに深く感動して帰郷したことです。
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京都市の西南に位置するこの離宮には以前から一度行ってみたいと思いながら、宮内庁へ見学
申請をしなければ許可されないので、今回初めて申し込み、先週末に訪れてきました。
離宮というのは、皇室や皇族によって造営された別荘であり、桂離宮が造られたのは、江戸時代
のはじめ(1615年)からといいますから、意外と新しい。
時の後陽成天皇の弟・智仁(としひと)親王(八条宮という)が別邸として造られたのだそうです。
総面積は6万9千平方メートルあると聞きました。
桂川の左岸に位置していますが、昔は山陰街道が桂川と交わり、交通の要衝の地であったそうです。
また観月の名所としても知られていました。(阪急電車、桂駅からは徒歩で20分ほどです。)
見学者は受付で予め送られてきた許可書と身分証明書を提示し、番号札を胸にぶら下げて入園です。
マイクを持った宮内庁の職員さんの先導のもとに、見学してきました。(一周・約一時間)
一部ですが、ご紹介してみたいと思います。
複雑に入り組んだこの回遊式庭園は、小堀遠州の好んだ技法が随所にみられるので、遠州の影響
を受けた工匠・造園師と親王の趣味趣向が結実したものと言われているそうです。
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見学は、まず御幸門へと続く小道から始まります。
離宮の北側にある表門(正門)は普段は使われることがないので閉められたままでしたが、
そこへ続く小道には、大きさの揃った小石(7〜8センチ)が敷き詰められ、霰(あられ)
が降り積もったように見えることから、「あられこぼしの小道」という名前で呼ばれている
そうです。この小道は中央部が少し高くなっています。
曲げられた青竹の下は雨水が流れるるよう溝になっていて、下水口が隠されていました。
霰こぼしの道を右折れすると、意外な風景に出会います。
大きな蘇鉄(ソテツ)が築山に幾本も植えられ、蘇鉄の向こうの視野を遮っています。
この蘇鉄は、薩摩島津家から献上されたそうですが、客人が回遊式庭園を最良の位置
から見られるように配慮されているのだとか。
上の案内図にあるように、大変複雑な形をした池には大小五つの小島が造られています。
池を取り囲むように、3軒の茶室があり、外腰掛があり、持仏堂があり、築山もあって、
最後には書院群へと続くように設計されています。
池には、洲浜を設けたり、板橋や石橋がかけられ、石灯籠を岬に見立てたり様々な工夫が
なされています。
下の2枚の写真は天橋立に見立てた石橋を角度を変えて撮ったものです。
角度を変えて見た石橋
次に茶屋を2軒紹介しましょう。
下は、茅葺入母屋造りの松琴亭(茶室)
「琴の音に峯の松風通うらし・・・」(拾遺集巻八雑)から採られて命名されたそうです。
市松模様で有名な松琴亭の襖
この大きな市松模様の襖は、有名なのでご存知の方も多いのではないでしょうか
ほんとに現代アートとしか思われないようなシャープなデザインです。
船着き場のある茶室は、 笑意軒
板戸の取手は、船の櫂の形にしてあります
池に浮かべる船って、どのくらいの大きさの船だったのでしょうね。
この建物は持仏堂
現在は安置されているものはないということです。
小さな太鼓橋には、滑り止めが施されて隅々まで配慮されているのが良く分かります。
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期待していた書院群は修築中で、鑑賞出来ませんでした。残念!
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最後に聞いた話を一つ。
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ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが1933年に日本を訪れた際、ここ桂離宮を訪れたそうですが、
古書院にあある「月見台」から観月した際に「理解を絶する美」、「偉大な芸術を持つ美である」
と絶賛したそうです。
月を眺めることさえ忘れがちな現代人。
池に船を浮かべて、観月会を催した人々からみたら、私達はどのように映るのでしょうね〜
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この花の名前をご存知ですか?
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一度見たら忘れられない形状ですが、何処ででも見られる植物ではないようです。
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我が家では、裏山に咲いているのですが、自生ではありません。3年前に友達が
「母の日にもらったのだけど、ベランダの植木鉢では可愛そうなので、お宅で育
ててもらえないかしら」と言って、桜の枝が張り出した日陰に植えていったもの
なのです。環境が合ったのでしょう毎年今頃の季節になると咲いてくれます。
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細いワイングラスのようなカップの中央に直径2センチくらいの雪のように真っ白な
不思議な球体が鎮座しています。カップの一部が日除けのように立ち上がり、覆うよ
うになっているのも造形の妙といったところでしょうか。
この傘のような部分は仏炎苞と言うそうですが、濃い紫の縞模様をしています。
植物の名はユキモチソウ、別名を歓喜草。サトイモ科テンナンショウ属だそうです。
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調べてみるとその姿形だけでなく、生態も非常に珍しいものだということを知りました。
白い餅のような付属体からは、虫の好む匂いを出して、虫を花の奥へと誘い込みます。
花はその栄養状態から、雌花と雄花に分かれるそうですが、雄花の苞の奥に落ちた虫は
身体に花粉を付着させて、底の隙間から外へ脱出、今度は雌花の苞に入り込み受粉を成
功させますが、雌花には出口がなくそこで虫は息絶えるのだそうです。
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こんな神秘的な美しさの花からは到底想像もできないようなドラマ性のある花だったと
は思いも及びませんでした。
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3枚1組の大きな葉っぱが、左右に分かれ着いています。
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神秘的で美しい花姿を求めて乱獲採種された結果、今は環境省から絶滅危惧種として
取り扱われてるそうですが、我が裏山では1株静かに咲いています。
餅のような球体を触ってみましたが、すべすべとして虫だったら滑り落ちるのだろう
と納得できました。でも匂いは私には全く感じられません。
中を切ったら発泡スチロールの様な感じだそうですが、それは一寸出来ないですね・・
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暑さには強いが、直射日光にはダメージが大きいとか、水分を好むが与え過ぎると枯
れてしまうとか、結構気難しい性格のようですが、うちの裏山は今のところお気に召
したようなので、来年も咲いてほしいと願っています。
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丘のような低い山ですが、北側になっている斜面は半日日陰の一寸見捨てられた山だったのです。
私がこの地に越してきたときは、パンダが住んでいるかと思うほどの鬱蒼とした竹藪でした。
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友人と宮崎妙子さんは、学生時代にワンダーフォーゲル部で同期だったと聞いています。
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ところでカラコルムのK2(標高8611m)という世界第2位の高峰を、ご存知でしょうか?
パキスタンの北部にヒマラヤ山脈、ヒンズークシ山脈、カラコルム山脈という3つの大山脈が
走っていますが、そのカラコルム山脈にあって名前がなくK2と呼ばれている高山があります。
カラコルムもK2も知らなかった私は、まずはパキスタンを調べてみました。
宮崎さんが最初にカラコルムを訪れられたのは、今から20年近く前の2004年のこと。
突然夫君からK2をヘリコプターに乗って見下ろすツアーに参加しないかというお誘いがあ
ったからだといいます。(この時点で宮崎さん61歳)
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いう街へ。
細見美術館さんは、屏風をたくさん蒐集しておられるようです。
京都で屏風絵といえば、「洛中洛外図」を思い浮かべられる方が多いと思いますが、
今回その絵柄に驚かされたのは、ちょうちょう踊りという屏風絵です。
あまりの奇抜な格好に度肝をぬかれた感じです。
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この仮装行列のような出で立ち、ことのおこりは大阪、だというから驚きです。
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大塩平八郎の乱があった天保8年(1837)
平八郎の乱のため天満宮が焼けてしまったため、その再建のために氏子が川を浚えて砂
を集め神社の社地を整えたのだそうです。
この期間、民衆はお祭り騒ぎでうかれ踊り続け、その騒ぎが評判になって諸国から見物
人が集まり大盛況となったのだそうです。
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天保10年(1839)春、京都でも民衆が米価の安定を願って、今宮神社に詣でた事
に端を発し、仮装した人々によって「豊年踊り」が始まったそうです。
タコにスッポン、フグにサギ、トンボやカタツムリなど、様々な動物になりきって踊り
回る人々の図です。
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まるで、日本版、ハロウイーンと言ったところでしょうか?
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大根や人参まで登場するところが日本的で面白いですね。
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絵を書いたのは、小澤華岳。
この祭りがいつまで続いたのか、調べたのですが分かりませんでした。
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屏風絵というのは、その当時の風俗や、人々の生活を伺い知る事ができて好きなのですが
この絵の登場人物たちはあまりにも奇抜で、しかしその人々の活き活きとした表情に魅せ
られてしまいました。お訪ねくださってありがとうございました。ではまた。
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