がご存知でしょうか。(2月2日〜4月7日)
初めて円空仏を知ったのは、もう随分前のテレビ番組でだったと記憶しています。
仏像について持っていたイメージとはかなりかけ離れた、それでいて見るものの心を
惹きつけ離さないその強烈な個性に驚かされました。
今回その円空仏が160体も鑑賞できるということで行ってきました。
会場に入るとまず高さ2メートルを越えようかという金剛力士立像(岐阜県 千光寺)
に出迎えられます。
荒削りのしっかりしたお顔、下部は木材の部分が露になっていました。(撮影可)
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江戸時代、寛政2年(1790)に出版された「近世畸人伝」には、立木にはしごを立て
かけ、円空が像を彫る様子を挿絵入リで紹介しているそうです。
円空さんについて
円空は江戸時代前期に美濃国(今の岐阜県)に生まれました。7歳のとき水害で
母を失い出家し、修験僧として旅をしながら神仏を彫り続け、12万体彫ると誓
ったそうです。(現存する円空仏は5000体ほどです。)
40歳の時には、奈良の法隆寺において法相宗の法系に連なる僧であると認められ
48歳の時には、滋賀県の園城寺で天台宗寺門派の密教を継ぐ僧であると認められ
ています。
作風は最初の頃のすべすべした丁寧なものから、大胆でゴツゴツした作風へと変化
していくのですが、流木などをそのまま使い、そこに顔だけを彫るようなスタイルも見
られるようになります。
彫られた仏たちの表情がにこやかに笑みを讃えたものが多いのに気付かされました。
円空の仏像彫刻は、鉈で大胆に彫ったものだと聞いていましたが、実際には大小の
印刀を使い、法衣や顔の表情を細かく表している部分も多く見られ感動しました。
(撮影禁止の仏像が多く、細部をお見せできないのが残念です)
僧であり、同時に偉大な仏師であった円空のような人物に驚嘆するばかりです。
飛騨の千光寺の住職舜乘と意気投合した円空は、しばしば滞在して造仏しています。
円空は千光寺を開いたとされる両面宿儺(りょうめんすくな)の像も彫っています
この人物、日本書紀では大和朝廷に服さぬ逆賊とされているのだそうです。
しかし飛騨や美濃では土地を開拓し、豊かさをもたらした英雄として伝えられてます。
通常、両面宿儺像は背中合わせに二つの顔を持つ姿だそうですが、円空による像は
正面の武人の肩にもう一人の武人が乘りかかるような姿を示しています。
54歳頃 千光寺所蔵
千光寺近隣の村人が病のときに寺から借り出し治癒を祈ったという観音三十三応現身
立像が会場にずらりと並べられた様は壮観と言う他ありません。
54歳頃 千光寺所蔵
元禄5年(1692)岐阜県高賀神社でつくられた十一面観音菩薩立像及び
善女龍王像、善財童子像 は現存する円空仏の最後のものだそうですが、
この仏像を造った3年後に、円空は64歳でその生涯を終えています。
61歳 岐阜県高賀神社所蔵
不動明王及び二童子立像
54歳頃 千光寺所蔵
護法神立像
54歳頃・千光寺所蔵
最後は千光寺さん所有の円空像です。1805年 大森旭亭筆
仏像マップを見ると、岐阜・愛知を中心に関東から東北、北は北海道まで修行
の旅をされ造仏もなっているのを知ることができます。
この図の円空さんからはそんなとてつもないエネルギーが何処に秘められてい
るのだろうと思わずにはいられません。ではまた。
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馬酔木も今年は、小さな鈴のような小花を細い枝に沢山つけています。
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磯の上に 生ふるあしびを手折らめど 見すべき君が ありといはなくに
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足元では、カンザキアヤメも寒さに震えながらも健気に日々花をつけています。
この花、原産国は地中海域だといいますから驚きます。
アルジェリア・ギリシャ・クレタ・シリア・アラブ・モロッコ・チュニジア・トルコ
の岩場に咲く、と説明にあって想像するとびっくりです。
7〜8センチの花の中央に黄色い斑が入り、網目状の模様もあります。
この季節、葉の間から花茎を伸ばし花を咲かせますが、葉っぱの間に密かに咲きます。
常緑性で植えっぱなしでも毎年この寒い時期に必ず咲いてくれるのが心嬉しいです。
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最後は一寸面白いキノコです。ツチグリといいます。
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このキノコ幼菌時は土の中に埋まっているのですが、成長すると地上に出てきて外皮が星状に
裂けます。雨が降ると、丸いボール(内皮)のてっぺんに穴があき、胞子を飛ばすのです。
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学名にはギリシャ神話の星の神様アストライア(Astraeus)の名前が付いているのだそうです。
雨が降る前にでてくるので、キノコの晴雨計とも言われているのだとか!
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いかがでしたでしょう。
鈴蘭水仙やクロッカスの芽も出てきています。春はもうすぐそこまで来ているのだと思うので
すが・・・・。今日もお尋ねくださってありがとうございました。
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「七福神の宝の入舩」と「近頃河原の達引」の2本を鑑賞してきました。
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一般に親しみを込めて文楽といいますが、人形浄瑠璃文楽というのが正式名称のようです。
人形と浄瑠璃を語る太夫さんと、三味線担当の方とで成り立っている総合芸術なのですね。
ここだけは絶対に外せないと言う歴史好きの友人の助言で行ってきました。
吉水神社は元を「吉水院」(きっすいいん)といい、1300年以上も前の天武天皇の時代
に役行者が創設した格式高い修験宗の僧坊であったといいます。
明治に行われた神仏分離令によって、吉水院が、後醍醐天皇の南朝の皇居であったことから
明治8年に吉水神社(よしみずじんじゃ)と改められました。
(楠木正成や吉水宗信も祀られています)
表門です。
門の 両サイドに菊の御紋の提灯がかかげられていました
表門をくぐると、趣のある日本家屋(日本最古の書院造り)の玄関前は、見晴らしの良い広場
になっいて、そこからは中千本から上千本まで、山桜を眼前に見渡せるようになっていました。
今は、桜の葉が紅葉していますが、春、全山桜が満開の時は素晴らしい眺めでしょうね。
檜皮葺きの書院
初期書院造りの代表的建物・国の重要文化財。ユネスコより世界遺産として登録されています。
義経の滞在
この館には、文治元年(1185)年、源義経が兄・源頼朝の追補を逃れて、愛妾静や弁慶を伴って
吉野入りしたたときにも使わたそうです。
義経や弁慶が滞在したという部屋や愛用品も展示されていました。
かの静御前が、こんな山深いところに隠れ住んでいたというのは、物悲しいですね。しかも滞在期間
は5日間で、義経はここから山伏姿に扮して弁慶と共に逃亡したのだそうです。
義経の間と弁慶思案の間
義経の愛用の色々威腹巻き(鎧)
後醍醐天皇の滞在
延元元年(1336)後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に行幸された時、この吉水院
の宗信法印が天皇をここにお迎えし、天皇もこのお部屋を南朝の皇居と定められて、ここに
吉野朝の歴史が始まりました。南朝は4代57年続いたそうですが、天皇は王政復古の夢を果
たせず、波乱の生涯をこの地で終えられています。
後醍醐天皇の玉座と御物
部屋の畳も、壁の絵画もとても綺麗で新しく見えますね。
実はこの玉座の間は、秀吉が花見の際に修繕寄贈されたもので、画家は狩野派の絵師です。
豊臣秀吉の滞在
文禄3年(1594)豊臣秀吉はその権勢を天下に知らしめた盛大な花見をここ吉野で
挙行しています。
5000人の家来と共に宴会は5日間開催されたと言いますが、初めの3日間は雨だっ
たそうです。各武将が趣向をこらし、歌会、茶会、能の会が催されました。
吉野の大花見の図
人物はしかと見えにくいですが、この中には徳川家康、伊達政宗、前田利長も描かれている
のだと思います。
伊達政宗が山伏に扮し、秀吉が茶屋の下男に扮して寸劇をしたとか。桜の下では無礼講とい
う習慣はこの時代に始まった?
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蔵王権現の特別御開帳が始まったから行きませんかと誘われて、拝観して参りました。
いきなりのスケッチ画ですみません!
今回初めて蔵王堂の中へ入り拝観できたのですが、写真撮影はできませんでした。
(コロナのときは入り口までだったそうです)
お堂の中では、護摩木が赤赤と焚かれ、僧侶の読経の声と太鼓が響き渡り荘厳な雰囲気です。
金峯山寺でいただいたパンフレットを読んで初めてその3体の権現の意味合いとその歴史的背景
を知ることができました。以下に要約してみました。
役行者と前鬼・後ろ鬼の像
中央のご老人は役行者と言います。左右に控えているのは行者を支えた前鬼と後鬼です。
今からおよそ1300年の昔、修験道のご開祖である役行者は、全国の霊山をご開山になった
後、熊野から大峰山の稜線伝いに吉野まで修行されること33度を重ねられ、最後に金峰山の
山上ヶ岳の頂上で、一千日の参籠修行をされました。
苦しみの中に生きる人々をお救いくださる御本尊を賜りたいと役行者が願われたところ、最初
にお釈迦如来、千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏がおでましになられました。
役行者はその三仏の柔和なお姿をご覧になって、このお姿では荒ぶる衆生を済度し難いと思わ
れて更に祈念されたところ、天地が鳴動し山上の大盤石が割れ裂けて、雷鳴と共に湧き出るが
如く、憤怒形相の荒々しいお姿の御仏がお出ましになられたのです。
権現というのは、神仏が姿を変じてお出ましになった仮のお姿だったのですね。
この御仏が金剛蔵王大権現で、役行者はそのお姿を山桜の木に彫刻し、山上ケ岳と吉野山にお
堂を建てお祀りされました。
山桜の木に役行者が彫刻されたことから、吉野山では山桜が神木として保護されています。
下の写真は現在の蔵王堂の全景です。
蔵王堂全景
「蔵王堂」は今までに幾度も焼失と再建を繰り返しているそうですが、1591年に豊臣秀吉
により再建されたものが現在の建物です。
単層裳階付き入母屋造り檜皮葺きで、高さ34m、裳階の四方36mの豪壮な建造物です。
木造古建築としては、東大寺大仏殿に次ぐ大きさを誇っています。
2004年には、その「文化的景観」の価値が認められ、ユネスコの世界文化遺産に登録され
ました。
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新酒試飲会などで酒蔵を訪れた方は多いかと思いますが、醤油蔵の見学はないという方
が大方ではないでしょうか。
見学の際、酒蔵に並んでいたのは、ホウロウ製のタンクだったのではないでしょうか。
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かって、醤油、酒、みりん、味噌、酢、などの発酵食品は、木桶で醸造されていたそう
ですが、生産コストを抑えるために現在はホウロウ製タンクに変わり、木桶での醸造は
全体の1%にも満たないそうです。
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小豆島に今でも木桶で醤油を醸造している「ヤマロク」という会社があります。
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本題に入りましょう。
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ここでいう「巨大おけ」とは、杉材で造られた桶。高さと直径が2メートルはあります。
32石といいますから、6000L。人が中にすっぽり入れるくらいの大きさです。
木桶は、100年から150年の長きにわたって使用できるそうですが、ヤマロクさんには
大桶が40、半分の大きさの桶が28、あるそうですが使用中の桶の半数は、戦前に購入
されたもので、やがて新しい桶の購入が必要となるそうです。
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・・
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しかし興福寺というのは広大なお寺さんですね〜。
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奈良が都に定められた和銅3年(710)に、時の右大臣藤原不比等が願い出て、春日
山麓のこの景勝の地に一族の繁栄を願ってお寺を造営したのが始まりと聞きますから、
随分と歴史のあるお寺なのですね。
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1300年の歴史の中で、度重なる災害や戦火を経て、幾度も再建されたお堂や仏像の
数々。その貴重な宝物が集められている「国宝館」を目指しました。
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良くぞこれだけの素晴らしく貴重な仏像群が、先の戦争でも消失することなく、残され
たものと奇跡を見るような気がします。
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運慶作の不空羂索観音坐像や、南円堂にあったという四天王像、法相六祖像、北円堂に
あった四天王像、平板な十二神将立像、十大弟子像、・・・
数々の国宝、重文、を鑑賞しながら最後に、目指す八部衆立像の前にたどり着きました。
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仏像は、如来・菩薩・明王・天部と四つのグループに分けられるのだそうですね。
この八部衆といのは、天部に属するのだそうです。
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それにしても名前といい、お顔といい、身につけておられる物といい、他の仏像とは随分
異なった印象なのですが、それもそのはず、元々は古代インドの異教の神々だそうです。
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八部衆というのは、8つの種族という意味だそうですが、異教の神々が釈尊に教化されて
仏法守護の善神となられた姿だそうです。
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まずは 五部浄(ごぶじょう)八部衆の「天」に相当する神
興福寺では最初にこの神を置く事によって天部像を総称する。
象の冠を冠っています、胸から下は失われています。
像高 上半身 50.0cm
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(高さ14.98メートル,座高7.48メートル)
上の大仏様は、富山県高岡市の大佛寺にある「大仏」です。
「だいぶつさん」といって慕われていますが、高岡銅器職人の技術の結晶といわれています。
高岡は鋳物の町として有名なのですが、ご存知でしたでしょうか。
鋳物というのは加熱して溶かした金属を型に流し込んで、金属製品を造ることと辞書にあります。
日本に鋳物技術が伝わったのは、弥生時代と推測され、銅鐸や銅鏡、銅剣などが出土しています。
古墳時代や飛鳥時代以降になると、各種の器や工芸品、仏像などが造られるようになりました。
高岡市の場合、江戸時代、加賀前田藩の前田利長が鋳物師(いもじ)7人を京都の丹波から招い
て市内(金屋町)に工場を開いたことが起源とされています。
私は、中学の2年生まで高岡市に住んでいたのですが、当時は(もう70年近く前になりますが)
同じ町内に、金属を流し入れる土の型を造ったり、出来上がった銅製の壺を火花を飛ばしながら
磨く小さな町工場が沢山あったのを覚えています。
当時、高岡銅器は分業体制によって成り立っていたようです。
原型の製作→原型をもとに型をとる鋳型製作→鋳型に溶解した金属を流し込む鋳造→溶接→研磨
→着色や彫金
色々な工程があり、仏具・茶道具・花器・火鉢・銅像・梵鐘など大小、色々な製品が生産されて
いました。
400年の歴史をもつ高岡の鋳物技術は世界的評価も高く、国際的な名声を得ているそうですが、
何時の頃からか斜陽産業だといわれて久しく、とても残念に思っていました。
ところがこの度高岡へ帰郷して、今や世界に羽ばたく鋳物製造の会社があることを知り、見学に
行ってきました。
高岡市の南部にある、オフィスパークなかにその会社はありました。
会社の名前を「能作」と言います。
錫100%の食器や、ぐにゃーっと曲げたり伸ばしたりできる変幻自在の器を造っている会社です。
力の入れ具合で角度や形が変形する
製造工程が総てオープンにされ、溶かした金属が煙を上げて鋳造されていく工場内を見学できました。
体験教室では、20人くらいの方が、型取りから花瓶を造っておられる姿もありました。
1階の展示場には、能作さんの傑作、自由に曲げられる錫製品のお皿や果物籠が並べられていました。
ここで能作さんの具体的な経営の方針をご紹介するのは無理ですから、会社の履歴を詳しく編集され
た本をご紹介をしましょう。
著者 能作克治 ダイヤモンド社発行
富山を離れて70年、
故郷のニュースを聞く度に、一喜一憂していた私ですが、こんな郷土の基幹産業を飛躍的に
発展させている製造工場があったことを知りませんでした。
経営者陣のご努力とアイディアで成し遂げられた偉業に感動しました。
400年の技術が生きていることに深く感動して帰郷したことです。
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京都市の西南に位置するこの離宮には以前から一度行ってみたいと思いながら、宮内庁へ見学
申請をしなければ許可されないので、今回初めて申し込み、先週末に訪れてきました。
離宮というのは、皇室や皇族によって造営された別荘であり、桂離宮が造られたのは、江戸時代
のはじめ(1615年)からといいますから、意外と新しい。
時の後陽成天皇の弟・智仁(としひと)親王(八条宮という)が別邸として造られたのだそうです。
総面積は6万9千平方メートルあると聞きました。
桂川の左岸に位置していますが、昔は山陰街道が桂川と交わり、交通の要衝の地であったそうです。
また観月の名所としても知られていました。(阪急電車、桂駅からは徒歩で20分ほどです。)
見学者は受付で予め送られてきた許可書と身分証明書を提示し、番号札を胸にぶら下げて入園です。
マイクを持った宮内庁の職員さんの先導のもとに、見学してきました。(一周・約一時間)
一部ですが、ご紹介してみたいと思います。
複雑に入り組んだこの回遊式庭園は、小堀遠州の好んだ技法が随所にみられるので、遠州の影響
を受けた工匠・造園師と親王の趣味趣向が結実したものと言われているそうです。
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見学は、まず御幸門へと続く小道から始まります。
離宮の北側にある表門(正門)は普段は使われることがないので閉められたままでしたが、
そこへ続く小道には、大きさの揃った小石(7〜8センチ)が敷き詰められ、霰(あられ)
が降り積もったように見えることから、「あられこぼしの小道」という名前で呼ばれている
そうです。この小道は中央部が少し高くなっています。
曲げられた青竹の下は雨水が流れるるよう溝になっていて、下水口が隠されていました。
霰こぼしの道を右折れすると、意外な風景に出会います。
大きな蘇鉄(ソテツ)が築山に幾本も植えられ、蘇鉄の向こうの視野を遮っています。
この蘇鉄は、薩摩島津家から献上されたそうですが、客人が回遊式庭園を最良の位置
から見られるように配慮されているのだとか。
上の案内図にあるように、大変複雑な形をした池には大小五つの小島が造られています。
池を取り囲むように、3軒の茶室があり、外腰掛があり、持仏堂があり、築山もあって、
最後には書院群へと続くように設計されています。
池には、洲浜を設けたり、板橋や石橋がかけられ、石灯籠を岬に見立てたり様々な工夫が
なされています。
下の2枚の写真は天橋立に見立てた石橋を角度を変えて撮ったものです。
角度を変えて見た石橋
次に茶屋を2軒紹介しましょう。
下は、茅葺入母屋造りの松琴亭(茶室)
「琴の音に峯の松風通うらし・・・」(拾遺集巻八雑)から採られて命名されたそうです。
市松模様で有名な松琴亭の襖
この大きな市松模様の襖は、有名なのでご存知の方も多いのではないでしょうか
ほんとに現代アートとしか思われないようなシャープなデザインです。
船着き場のある茶室は、 笑意軒
板戸の取手は、船の櫂の形にしてあります
池に浮かべる船って、どのくらいの大きさの船だったのでしょうね。
この建物は持仏堂
現在は安置されているものはないということです。
小さな太鼓橋には、滑り止めが施されて隅々まで配慮されているのが良く分かります。
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期待していた書院群は修築中で、鑑賞出来ませんでした。残念!
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最後に聞いた話を一つ。
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ドイツの建築家、ブルーノ・タウトが1933年に日本を訪れた際、ここ桂離宮を訪れたそうですが、
古書院にあある「月見台」から観月した際に「理解を絶する美」、「偉大な芸術を持つ美である」
と絶賛したそうです。
月を眺めることさえ忘れがちな現代人。
池に船を浮かべて、観月会を催した人々からみたら、私達はどのように映るのでしょうね〜
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この花の名前をご存知ですか?
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一度見たら忘れられない形状ですが、何処ででも見られる植物ではないようです。
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我が家では、裏山に咲いているのですが、自生ではありません。3年前に友達が
「母の日にもらったのだけど、ベランダの植木鉢では可愛そうなので、お宅で育
ててもらえないかしら」と言って、桜の枝が張り出した日陰に植えていったもの
なのです。環境が合ったのでしょう毎年今頃の季節になると咲いてくれます。
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細いワイングラスのようなカップの中央に直径2センチくらいの雪のように真っ白な
不思議な球体が鎮座しています。カップの一部が日除けのように立ち上がり、覆うよ
うになっているのも造形の妙といったところでしょうか。
この傘のような部分は仏炎苞と言うそうですが、濃い紫の縞模様をしています。
植物の名はユキモチソウ、別名を歓喜草。サトイモ科テンナンショウ属だそうです。
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調べてみるとその姿形だけでなく、生態も非常に珍しいものだということを知りました。
白い餅のような付属体からは、虫の好む匂いを出して、虫を花の奥へと誘い込みます。
花はその栄養状態から、雌花と雄花に分かれるそうですが、雄花の苞の奥に落ちた虫は
身体に花粉を付着させて、底の隙間から外へ脱出、今度は雌花の苞に入り込み受粉を成
功させますが、雌花には出口がなくそこで虫は息絶えるのだそうです。
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こんな神秘的な美しさの花からは到底想像もできないようなドラマ性のある花だったと
は思いも及びませんでした。
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3枚1組の大きな葉っぱが、左右に分かれ着いています。
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神秘的で美しい花姿を求めて乱獲採種された結果、今は環境省から絶滅危惧種として
取り扱われてるそうですが、我が裏山では1株静かに咲いています。
餅のような球体を触ってみましたが、すべすべとして虫だったら滑り落ちるのだろう
と納得できました。でも匂いは私には全く感じられません。
中を切ったら発泡スチロールの様な感じだそうですが、それは一寸出来ないですね・・
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暑さには強いが、直射日光にはダメージが大きいとか、水分を好むが与え過ぎると枯
れてしまうとか、結構気難しい性格のようですが、うちの裏山は今のところお気に召
したようなので、来年も咲いてほしいと願っています。
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丘のような低い山ですが、北側になっている斜面は半日日陰の一寸見捨てられた山だったのです。
私がこの地に越してきたときは、パンダが住んでいるかと思うほどの鬱蒼とした竹藪でした。
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友人と宮崎妙子さんは、学生時代にワンダーフォーゲル部で同期だったと聞いています。
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ところでカラコルムのK2(標高8611m)という世界第2位の高峰を、ご存知でしょうか?
パキスタンの北部にヒマラヤ山脈、ヒンズークシ山脈、カラコルム山脈という3つの大山脈が
走っていますが、そのカラコルム山脈にあって名前がなくK2と呼ばれている高山があります。
カラコルムもK2も知らなかった私は、まずはパキスタンを調べてみました。
宮崎さんが最初にカラコルムを訪れられたのは、今から20年近く前の2004年のこと。
突然夫君からK2をヘリコプターに乗って見下ろすツアーに参加しないかというお誘いがあ
ったからだといいます。(この時点で宮崎さん61歳)
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いう街へ。
細見美術館さんは、屏風をたくさん蒐集しておられるようです。
京都で屏風絵といえば、「洛中洛外図」を思い浮かべられる方が多いと思いますが、
今回その絵柄に驚かされたのは、ちょうちょう踊りという屏風絵です。
あまりの奇抜な格好に度肝をぬかれた感じです。
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この仮装行列のような出で立ち、ことのおこりは大阪、だというから驚きです。
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大塩平八郎の乱があった天保8年(1837)
平八郎の乱のため天満宮が焼けてしまったため、その再建のために氏子が川を浚えて砂
を集め神社の社地を整えたのだそうです。
この期間、民衆はお祭り騒ぎでうかれ踊り続け、その騒ぎが評判になって諸国から見物
人が集まり大盛況となったのだそうです。
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天保10年(1839)春、京都でも民衆が米価の安定を願って、今宮神社に詣でた事
に端を発し、仮装した人々によって「豊年踊り」が始まったそうです。
タコにスッポン、フグにサギ、トンボやカタツムリなど、様々な動物になりきって踊り
回る人々の図です。
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まるで、日本版、ハロウイーンと言ったところでしょうか?
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大根や人参まで登場するところが日本的で面白いですね。
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絵を書いたのは、小澤華岳。
この祭りがいつまで続いたのか、調べたのですが分かりませんでした。
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屏風絵というのは、その当時の風俗や、人々の生活を伺い知る事ができて好きなのですが
この絵の登場人物たちはあまりにも奇抜で、しかしその人々の活き活きとした表情に魅せ
られてしまいました。お訪ねくださってありがとうございました。ではまた。
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文化ゾーン岡崎というより、平安神宮の直ぐ側と言った方が分かり易いでしょうか。
「京都国立美術館」の横を「疎水」が流れていますが、その疎水沿にあります。
好きな美術館なのですが、久しぶりに立ち寄ってみました。
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大阪の実業家、細見良さんに始まる細見家三代が蒐集された美術工芸品が見られます。
まず、下の写真をご覧ください。
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ボードの花瓶に野草がさしてありますが、ご注目いただきたいのは花ではなく花瓶です。
この花瓶実はワイヤーで編み込んであります。その中に小さな試験管のようなガラス瓶が差し
てあります。
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初めてワイヤーartなるものに出会ったのは、友人Mさんの家であった食事会の席上!
何気なく飾ってあった野草の可憐さと、ワイヤーで編んだ瓶の繊細さに新鮮な驚きを覚えました。
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出来上がりを並べて眺めると反省点は沢山あるのですが、自作というのは嬉しいものですね。
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指導してくださった奥田由味子さんは、
ワイアーartの他に、ガーデンプランニング・植物コーディネイト・園芸療法活動・
ホスピタルガーデナー のお仕事など幅広くご活躍なさっています。
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最後に、場所を提供してくださったMさんお手製のケーキを頂きながら反省会を持ちました。
野草をご用意くださったのもMさん!
お陰様でとても楽しい時間を持つ事ができました。
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手毬歌に、♫ 一番初めは一宮、♫ 二は日光東照宮 ♫ 三は桜の惣五郎・・・・・
というのがありますね〜
八番目が何処かご存知でしょうか?
実は、八(や〜つ)八幡(やわた)の八幡宮と続きますが、その八幡の八幡宮が石清水
八幡宮のことだったとは、いい歳をしているのに今まで知りませんでした。
JRの大山崎のあたりから、淀川の向こうに小高く男山が見え、そこには石清水八幡宮と
呼ばれるお宮さんがあることは知っていたのですが、無知もいいとこでした。
男山の中腹に、冬にも凍らず、夏にも涸れない霊泉「石清水」が湧き出ているのでこの
名があるのだそうですが、随分立派なお宮さんでした。
南総門
パンフレットによりますと
平安時代の初め、「宇佐神宮」にこもり修行中だった大安寺の僧・行教が八幡大神のお告
げを聞いて、(清和天皇の勅命により) 860年に男山に八幡宮の社殿を造営したのが
起源だそうです。(以来幾度も消失し、造営14度・修理17度に及んでいる)
1580年の織田信長による修理や、豊臣秀吉の回廊再建、豊臣秀頼の社殿再建等を経て
現社殿は1634年に徳川家光により造営されました。
本殿は、桁行11間の内殿と、外殿を前後に並べて複合させています。
壮大な規模を持つ八幡造、国内の同型式の本殿のなかでは最古で最大級です。
平成28年には、本殿を含む本社十棟、棟札三枚が国宝に指定され、摂社五社並びに総門
三門の計八棟が重要文化財に指定されました。
11間の長い内殿と外殿です。神様が昼は外殿に、夜は内殿に遷られるのだとか。
参道は本殿に向かって斜めに敷設されているのがお分かりになりますか?
これは参拝後の人々が帰路、臀部を神様に向けないように配慮されているのだそうです。
平安京においては、東北側の鬼門を守護するのは比叡山・延暦寺、
南西側の裏鬼門を守護するのは男山・八幡宮と位置付けられていました。
皇室の御崇敬が厚く、また武運長久の神としても全国の武士が尊崇を寄せていました。
今日でも、厄除けや開運の御神徳が高いので、男女を問わず厄年に当たる人を初め、安全を
祈る企業や、学問・技術の向上を願う人々のお参りが絶えないのだそうです。
社殿は男山の東頂部に建造されていますが、随分と広大で楠木などの照葉樹林が社殿を囲ん
でいましたが、巨木の多さに目を奪われました。
1334年に楠木正成が必勝祈願参拝の折に奉納したと伝わる樹齢700年の大楠が神楽殿
横に見られました。
大楠
照葉樹林と同様、竹林も手入れが行き届き青竹の美しさが目だちます。
石清水八幡宮付近の真竹を利用して、白熱電灯を完成させたのが発明王エジソンです。
このあたりの竹は強くて質が高いので、電灯のフィラメントとして用いられました。
エジソンとその業績を記念したモニュメントが三の鳥居近くの広場にありました。
記念碑
帰宅後パンフレットを読んで知ったのですが、一年間の祭典行事が目白押しにあるようです。
再度参拝したいと思う行事を挙げてみますと
厄除け大祭焼納神事 1月19日
節分前日 「鬼やらい神事」
舞楽の奉納がある「男山桜まつり」(春分〜4月30日)
勅祭石清水祭り 9月15日
などです。
「何事も先達あらまほしきものなり」という、兼好法師の徒然草にでてくる有名な段は、まさに
ここ石清水八幡宮のことだそうですが、パンフレットを読みながら見落としの多い私は、改めて
「そうだなあ〜」と思ったことです。ではまた。
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5〜6年前、NHKの番組で絹谷さんの絵画制作場面を垣間見たことはあったのですが、
実際に美術館を訪れたのは今回が初めてのことでした。
パンフレットによれば絹谷さんは、東京芸大卒業後ヴェネツイアでアフレスコ壁画の古典
技法を修得され、その後独創的なスタイルを確立されたのだそうです。
フレスコ画というのは高校で宗教画の一つとして習ったように記憶しているのですが、絵
の感じは全く違って、力強さが漲っていました。
美術館へ入るとシンボルゾーンと呼ばれるところに一枚の大きな(150号位)の絵がある
のですが、燃えるような赤い画面に富士山とそれを取り巻く竜が描かれていました。
この絵はパンフレットを撮ったものです
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絵の横で、今回の美術展で一番の呼び物である3Dによる鑑賞を体験してきました。
鑑賞者は椅子に座したままなのですが、正面・左右から絵の中の竜をはじめ様々な映像が
音響とともに突進してくるのです。10分間くらいの体験でしたが不思議な世界でした。
絵をあんな風に味わうとは思っても見なかったですね〜
大きく口を開けた竜に飲み込まれるような錯覚を覚え、あるいは宇宙空間に自分も漂って
いるかのような体験ができました。(美術館が用意された眼鏡をかけて見ます)
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絵画の展示ゾーンは、赤の部屋と青の部屋の二室に分かれていましたが、そこは撮影禁止
なので残念ながらここではご紹介できません。
PS1
絹谷幸二さんは、半世紀にわたって日本の現代画壇をリードされ、後進の育成にも
努力されています。
2014年には文化功労者として顕彰、2021年には文化勲章を受賞されています。
PS2
イタリアではアフレスコ画と言うそうですが、私達が美術の時間に習ったフレスコ画
のことのようでした。
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現在、大阪府が安威川ダムを建造中です。
ダムの堰堤は出来上がり貯水の段階ですが、その堰堤の西側に神峰山大門寺があります。
大門寺も大改築中なのですが。この度本堂が完成し落慶法要が行われました。
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境内の最北の高台に本殿があります。
鈍く光る、ずっしりとした大屋根を乗せた、真新しい木造の伽藍です。
(大門寺さんのパンフレットから)
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新しいお堂の中では、多くの僧侶のご指導のもとに一人ひとり無言で儀式が進められました。
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赤レンガ倉庫群の一角から、軍港めぐりの遊覧船が出ているというので行ってみました。
・
・
思ったより小さな船でしたが、30分かけて軍港を1周するというのでので乗船することに。
定員は60人でしたが、当日は半数くらいの乗船者数でした。
・
出港して初めに目に入ってきたのは、色とりどりの旗をなびかせた艦。
マンカンショクという言葉をご存知ですか?
雨の日に、洗濯物を部屋中に広げて干すと、母がよくマンカンショクのようじゃね〜
と言っていましたが、マンカンショクとは、満艦飾と書きます。
停泊中の軍艦が軍艦の外側の見映えよく満たすために、艦首から船の中心のマスト、
そして船尾まで軍艦旗や信号旗を連ねて掲げ飾ることを言うそうです。
・
・
案内は自衛官退官の方が二人でしたから、詳しく説明してくださったのですが、私は戦艦
に関しては無知なのでさっぱり分からず、船なのに工場みたいだなあと妙なところに感心
していました。
・
・
後になって分かったことですが、この巨大な艦艇は、補給艦「ましゅう」といいます。
集中治療室等の医療設備も充実していて、三陸沖の地震には一番に出港したそうです。
13500tもある巨大な船で、在外邦人輸送等の活動もしていると聴きました。
・
・
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護衛艦
・
上の艦は全長130m✕幅14mの護衛艦まつゆき、3000t、もあるそうです。
どうしてあんな巨大な船が、停泊しているのに浮くことができるのかすら理解できません。
(窓越しに揺れる船内から写真を撮っていますので、不鮮明ですみません)
・
当日は、東京湾で行われる予定の観艦式に出るため、舞鶴の主力艦は出払っていたようです。
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軍港めぐりの後は、バスに乗車して西舞鶴まで移動しました。
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JR西舞鶴駅から徒歩4〜5分のところに今は舞鶴公園になっている「田辺城跡」がありました。
・
・
赤いのぼり旗に「細川幽斎」とあるのがお読みになれますか。
ここは、かの有名な細川幽斎が500人の兵で籠城したという平城の跡です。
1940年に復興されたそうですが、二層櫓になっています。
・
二層櫓
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細川幽斎という武将は文武に優れ、秘伝口伝「古今和歌集」の伝承者だったそうです。
時の天皇が幽斎を惜しんで勅命をだされ、52日間の籠城戦が終わったといいますから驚きです。
戦いの相手は、兵15000人を擁する石田三成です。
・
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下は復元された城門。
大阪城の巨大な城門を見慣れているので、その規模に少し驚きましたが、この戦いで石田三成の軍
が関ケ原に到着するのが遅れ、東軍に勝利をもたらしたと言われているそうです。
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城門
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心種園
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細川幽斎の歌
「古へも今もかはらぬ世の中に 心の種をのこすことの葉」
から取られた「心種園」という名称の和風庭園もあり、少し紅葉したもみじが見られました。
・
・
駆け足の一日旅でしたが、見ること学ぶことの多い一日でした。
今日もお尋ねくださってありがとうございました。
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「舞鶴」の地名を聞いたらどんなことを想像されますか?
大陸からの引き上げの人々が、最初に踏んだ日本の地!
旧海軍の鎮守府があった場所!
海上自衛隊の基地があるところ!
赤レンガの倉庫が立ち並んで居るスケッチポイント!
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色々あるでしょうね。
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昨日、薄(すすき)の別名を茅(かや)という、のだそうですね。と書きましたが、
正確には茅の代表的なものはすすきですが、他にチガヤ、スゲ、などもその仲間です。
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・
茅の仲間は茎や葉に油分があるので水をはじき、耐水性が高いそうです。
この特徴から茅は屋根を葺くのに好適な材料となり、以前の日本では最も重要な屋根材
として用いられてきました。(茅葺屋根)
農村では「茅場」を作って大事に管理したといいます。
以上です。
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私が一番それらしく思えるのは風に揺れるコスモスの優しいピンクなのですが。
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花びらが薄すくて、色も優しく、大きさは夏の向日葵のように大きくなく、と言って小さ過ぎも
せず、花瓶に活けると周りがパ〜っと明るくなる。
秋の七草は色々あってそれぞれに良いけれど、昔、山上憶良が選んだという秋の七草には選ばれ
なかったようですね。
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色はないけれど、秋の色かなと次に思うのは薄(すすき)です。
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光線の具合によっては光の中で輝くばかりの銀色に見えますが、学生時代、蘇芳色というのは
すすきの色だとならったような気がするのだけど・・違ったでしょうか?
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風にひかる薄の銀色
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すすきの別名を「かや」というのだそうですね。
かやは茎も葉も大変に強いので、茅葺き屋根に使われたそうですが、農村では「茅場」をつくって
大事に管理したのだと聴いています。
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大事な秋の色を忘れてました。桔梗の紫、
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花ではないけれど、ヨウシュヤマゴボウの濃い紫の実、
山ぶどうの青紫のブルー色々ありますね。
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実は昨日、友人の山の庭へ行ってきました。
お庭を開放して、しかも「山草ランチ」が戴けるという粋な計らいです。
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これぞ、秋の色って感じですね。
りんどうって漢字では「竜胆」と書くのだそうです。その音読みが変化してりんどうになったとか!
りんどうの根は大変に苦いけれど薬用になるそうです。
古くから知られる「熊の胆」よりもさらに苦いのでこう名ずけられたと、同行の友達から聞きました。
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こうして探してみると秋の色っていろいろあってどれが「秋の色」とは断定しがたいですね。
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郡山城の最後の藩主は柳澤保申であったことまでご紹介していますが・・・・。
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今回は、大和郡山のもう一つの顔(代表)である金魚について書いてみました。
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大和郡山市における金魚養殖の由来
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1724年(亨保9年)大和郡山が藩になった時、柳澤吉里が初代藩主として甲斐国(山梨県)
から入部、その時金魚と金魚職人を連れてきたことに始まると伝えられています。
・
・養殖場
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大和郡山は自然条件として水質・水利に恵まれた農業用のため池が数多くあり、ため池に発生する
ミジンコ類が金魚の餌に適していたなど有利な条件も備わっていたようです。
・
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幕末の頃になると藩士の副業として金魚が飼われ、明治維新後に職禄を失った藩士や、農家の副業
として盛んにおこなわれるようになりました。
・
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現在、大和郡山市のキャッチフレーズは「平和のシンボル、金魚の泳ぐ城下町」です。
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・ 市内のマンホールの蓋
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せっかくですから、金魚すくい道場へ行ってきました。
シーズンオフとあってか客人は見当たりませんでしたが・・・・・・
・
・沢山並んだ金魚のプール
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夜店で子どもたちが掬って遊ぶあの紙製のうちわを購入して試みましたが、直ぐにアウトでした。
あれはコツがいりますね。
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金魚入のソーダーがいただけるという喫茶店に寄りましたら・・・。
・
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なんと、テーブルが金魚の入った水槽になっています。
他の水槽にも色々の金魚が泳いでいます。近ければ買って帰りたいとこですが・・
お店の方に尋ねると、毎日水槽の掃除を欠かせないということでした。
・
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注文した、ソーダーです。金魚は黄桃で出来ていました!!
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近年は都市化に伴う水質汚濁等のせいで、生産量は減少しているそうですが、養殖農家は
約50戸、年間6000万匹が販売されていると言います。
金魚の生産量(尾)では郡山が日本一です。
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毎年4月上旬桜花満開の頃に、金魚を大和郡山にもたらした柳澤家の神社(城内)において
金魚品評会が行わています。その頃また来たいですね。
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・柳澤神社
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・是非一度、大和郡山市をお訪ねください。
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・記述内容の一部と写真は、大和郡山市のホームページ、
金魚好き必見!奈良の大和郡山は金魚だらけの街だった!│観光・旅行ガイド - ぐるたび (gnavi.co.jp)
・大和郡山の金魚の種類
から抜粋させていただきました。
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・なお、金魚の種類,売り上げでは愛知県・西部の弥冨が日本一だそうです。
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]]>秋晴れの一日、友達に誘われて奈良は郡山の「郡山城跡」を訪れて来ました。
・平成29年4月 続日本100名城に指定されています。
・
郡山城の城主が誰だったのかもよく知らなかった私なのですが、以下はパンフレット
からの抜粋です。
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郡山城の築城は1580年、筒井順慶が筒井から郡山に移ったときに始まる。
1585年には、豊臣秀吉の弟・秀長が郡山城に入城。
秀長は100万石の太守・大納言として大拡張工事を行っておよそ今の形になった。
徳川に代わってからは、水野勝成、松平忠明、本多政勝、松平信之、本多忠平など
徳川譜代の城主の後、1724年柳澤吉里が甲府より入場し、6代145年間続いた。
最後、柳澤保申が藩主であった時、1873年(明治6年)版籍奉還となり、城郭が
すべて入札売却された。
・
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・
たまたま過日、磯田道史先生解説で人気番組のNHK「英雄達の選択」で秀長を取り上げ
ていたのですが、ご覧になった方も多いと思います。
秀長は大変な知恵者で、生涯兄秀吉を助け続けた人物だったそうです。
「刀狩り」や「検地」の制度を取り入れたのも秀長だったことを初めて知りました。
彼が長生きしていれば、朝鮮遠征はなかっただろうとも聞きました。残念!
・
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最初に天守台が目に飛び込んできました。
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・
素敵な花だとお思いになりませんか?
葛の花です。
どこまでも弦を伸ばして広がっていく嫌われ者の「葛」の花です。
こんなに楽しい花をつけるのです。
紅紫色の蝶型の花は芳香を放ちます。
もちろん秋の季語です。
後の世も山を恋ふらむ葛の花 坂本坂水
台風の去った朝、山道で見つけました。
吹き飛ばされもせず、頑張っていたのですね。
・
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「里山のつる性植物」の本で調べてみました。
・
葛 マメ科 多年草 半低木 分布 沖縄〜北海道
葛粉、衣服の繊維、籠編みの材、庭木の冬囲いのなどに活用される
生育旺盛で盛夏には1日で1メートルほども伸び、年を追うごとに太くなり、基分は
木質化する。長い葉柄をもち3出複葉の大きな葉をつける。
葉柄の基部に黄褐色の毛のある1対の托葉がある。
・
・
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葛の葉は光の強さで開閉運動を行うのですが、日光の強い昼間は葉を閉じます。
朝や夕方には葉を開いています。
・
調べた本はこの本です。写真が多く、解説も詳しくて愛読しています。
・
・NHK出版、谷川栄 子著 本間秀和 写真
・
・
最後に、山上憶良の歌から、秋の七草を
「秋の野に 咲きたる花を指折りかき数ふれば 七草の花
萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」
・
・
・
藤袴にはまだ少し早いようです。咲いたらアサギマダラが来てくれるでしょうか?
ではまた!
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蕾のかたいフジバカマ
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比叡山、延暦寺へ行ってきました。(正しくはお参りしてきましたですね)
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延暦寺さんの概要についてパンフレットから抜粋です
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比叡山に国家鎮護の道場として、延暦寺が開かれたのは延暦7年(788年)。
伝教大師最澄が、一乗止観院(現在の根本中堂)を建立し、自ら刻んだ薬師如来
を安置して、日枝山寺としたのが始まりです。
・
延暦寺は、比叡山の山懐の杉木立の中に広がる約100をかぞえる堂塔の総称で
世界文化遺産に登録されています。
・
・
延暦寺さんは総本堂・根本中堂のある東塔地域、
集中豪雨や崖崩れを心配していたのに、なんだかこれでいいのと思ってしまいます。
塔の心礎からは、舎利と数々の埋葬品が発見されていますが、勾玉、管玉、丸玉、耳
飾り、鉄製の鎧など仏教以前の文化も色濃く継承されていたそうです。
・
・
・
向原寺(今はこうげんじと言っている)境内の発掘で判明したことは、昔この地に
豊浦寺(とゆらでら)という寺院があり、塔、金堂、講堂が並んで建っていたとい
うことです。境内は南北200メートル、東西80メートルの規模であったそうです。
・
余談1
豊浦寺というのは、元は推古天皇が即位された時(592年)に造られた宮でしたが、
603年に天皇が小墾田宮へ移られたので、蘇我馬子が宮を譲り受け、改造して寺と
しました。
・
・
しかもこの豊浦寺は日本最古の尼寺であったといいますから驚きます。
司馬達等の娘善信尼は他の二人の尼と共に、百済へ仏教の本戒を受けるために渡り
590年に帰国しています。
当時は法師寺と尼寺は、声が届くほど近くにあるべきと考えらてれていたようです。
飛鳥寺が法師寺になります。司馬達等は仏師、鞍作止利の祖父です。
・
・
しかしその後、国内に疫病が流行。異教を信じたからという理由で、難波の堀江に捨
ててしまったと伝わっています。
・
・
向原寺の山門
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本堂のまえの龍の彫刻
・
・
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・
向原寺に隣接して甘樫坐神社(あまかしいますじんじゃ)がありました。
・
・
灯籠としめ縄がなければ、それと気づかないほどのこじんまりとした神社でした。
推古天皇を主神とする延喜式内社だといいます。
・
・
社殿のすぐ横に大きな石が祀られていて、その前には火を炊く跡が見られます。
・
・
・
・
説明板によれば、これは盟神探湯(くがたち)といい、古代の裁判の場です。
・
・
煮え立つ熱湯の中に手を入れるという随分野蛮な裁判のようですが、日本書紀には
415年に盟神探湯が行われた記述があるそうです。
・
・
実は私が住んでいる茨木市安威には「阿為神社」という由緒ある神社があるのですが
阿為神社においてこの「盟神探湯」は形を変えて、10月の秋祭りに現在も行われて
います。この神社はなにかと藤原鎌足と縁の深い神社で、例年11月23日には境内
で蹴鞠の会が行われます。
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・
近鉄「飛鳥」の駅前から循環バスに乗り[野口」で下りて、田んぼのあぜ道を5分ばかり歩いた
住宅地にこの亀石が鎮座していました。なんともユーモラスな顔をしています。
・
幅は2.1メートル、高さは1.8メートル、奥行きは3,6メートルといいますから、かなり大きな
石像です。
・
昔、奈良盆地一帯が湖であった頃、蛇とナマズの争いがあって、蛇が勝ち水を吸い取られた
結果、湖の亀はみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちが、「亀石」を作って
供養した。という伝説が残っているそうです。
・
これは石工が彫ったもののように思いますが、甲羅の部分は自然石のままでした。
・
・
亀石から歩いて数分のところに、橘寺という寺がりますが、そこには二面石という石像が
・
・
・
高さは1メートルくらいですが、鼻が大きくて日本人離れした顔のように思われました。
当時の人々も明と暗の顔を使い分けて暮らしていたのでしょうか?
・
・
次の礎石は、建っていた五重塔のものです。
・
・
・
一辺が2.7メートルもある礎石の中央に1メートルばかりの孔(水が溜まっている)
があいていることから、初層は7メートルもあったと推測されるそうです。
・
・
・
橘寺から3キロほど歩いて、低い岡の上にある石像物を見に行きました。
奈良の紹介本には必ず掲載されている有名な石像です
・
酒造りに用いられたという言い伝えがあるそうですが、正確な用途は未だ不明だそうです。
・
・
・
・
長い方は5・5メートル。短い方は2・3メートル。高さは1メートル。
・
石の表面には楕円と円の窪みがあり、それらが放射線状の溝で繋げられています。
窪みの深さは6〜9センチ。溝の幅は約10センチ、深さは3センチ。
全体に東から西へ、5・5度傾斜しているそうです。
・
今は枯れた笹の葉が窪みに吹き寄せられ、溜まっています。
・
・
飛鳥にはまだ「猿石」をはじめ、色々の石像が発掘されていますが、今回の飛鳥行きでは
3箇所の石像を見てきました。
飛鳥という地域はそんなに広範囲な地帯ではないのに、文化遺産というべきものが幾重に
も重なって発掘されていますから、あまり日を置かずに訪ねたいと思っています。
・
・
・橘寺の境内で咲いていた菩提樹の花です。樹高4〜5メートルはありそうな立派な木でした。
・
・
]]>梅雨時の花といえばやはり紫陽花でしょうね。
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少し青みがかったのも咲いています。
・
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これは白に少し青みが入って清楚な感じです。
・
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次に多いのが額紫陽花です。
山アジサイを人工的に交配したのが市中に多く沢山出回っていると聞いていますが、
元々山アジサイというのは額紫陽花なのだそうですね。
・
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次の小さな株は六甲山の山アジサイ、七段花というそうです。
・
・
日本の紫陽花に比べ花びらが薄く、レースのような感触が可愛らしく、愛好者も多いそうです。
花が終わったあとも綺麗な形のまま枯れていくので、ドライフラワーにして飾っても良いですよ。
(お天気のことは関係ないですね)
・
まずは事件が起きた飛鳥板蓋宮の跡だと言われる場所
現在は井戸の跡と石敷きの広場が見られます。
・
・
・
「兵どもの夢の跡」って言いますが、田畑の広がる中に位置していました。
飛鳥の宮は天皇の代が変わる毎に建て替えられ、この下には複数の宮殿が重なって存在
することが調査で判明しているので、最近は飛鳥京と呼ばれることが多いそうです。
・
・
下の絵をご覧になったことありますか?
・
・
・
これは江戸時代の絵巻に描かれた蘇我家滅亡の瞬間の絵です。
今頃の季節のことを芒種というのだそうですが、芒とはノギと読んで、稲の穂先にある
針のような突起のことを言うそうですね。この歳になって知りました。
明石港から高速艇に乗船すると、淡路島の岩屋港まで13分です。
・
・
港の右手に日本一古いという、
石の灯台が見えました。
・
明石大橋の真下を横切り
岩屋港に着岸
目指す食堂は、港の一角にありました。
・
生シラスはこの時期、淡路島か江ノ島でしか、食すことができないという代物。
今年淡路のシラス漁は4月21日に始まり、5月末頃までが一番美味しいと聞きました。
・
・
茹でたり、乾燥などの加工を一切していないものを生シラスといいます。
鮮度が命の贅沢な食べ方ということになりますね。
今朝水揚げされたばかりのシラスの目玉はキラキラ光り、細くて2センチばかり
の体が透き通っていました。春シラスは甘みがありました。
・
・
色々なシラスの食べ方
釜あげシラスは、生シラスを3〜5分茹で上げたもの
シラス干しは、釜揚げシラスを天日干ししたもの(水分60〜70%)
ちりめんじゃこは、釜揚げシラスを乾燥機や天日で乾燥させたもの(水分30〜50%)
シラスになるのは、カタクチイワシ、マイワシ、ウルメイワシ、イカナゴ、ニシンなどの
稚魚だそうです
・
・
・
絵島
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・
・
漁港のすぐ近くに「絵島」と呼ばれる小さな島がありました。
国生み神話に出てくる「オノコロ島」の一つだと言われているそうです。
(高さ約20メートル、パワースポットとして有名だとか。)
・
地質学的にも2000万年前の砂岩層が露出し、岩肌の縞模様がはっきり見て
とれました。
1988年には兵庫県の指定文化財になっています。
島へは橋がかかっていますが今は修復工事中で、見学はできませんでした。
旬の果物は「苺」とありますが、スーパーには苺はもう並んでいませんね。
でも、朝の散歩道で「野いちご」を沢山見つけました。
・
・
・
・
先日まで白い花を沢山付けていたのですが、小さな真っ赤な実をつけています。
・
・
・
安威川に流れ込む細い川の土手にぶら下がって枝を伸ばす野イバラ。
野イバラはつるを伸ばして5メートルにもなるそうですが、上に伸びないで
横に伸びるそうです。(ここでは下に伸びていますが)
・
野イバラの花
・
・
我が家の裏山に咲くガマズミの花。
・
今年は例年になく花の数が多いように感じられます。
小さな花が寄り集まって、紫陽花のように7〜8センチの塊になって咲きます。
・
・
・
・
秋には赤い実ができますが、果実酒になるそうです。
・
・
次の花は何だと思われますか?
・
・
・
・
これじゃがいも畑の花たちです。
じゃがいもに花が咲くなんてご存知ない方も多いそうですが、
こんなに可愛い花が咲くのです。
・
・
・
・
ナスの花にも似ていますが、これに実がなるのではありません。
・
・
立夏って、次第に夏めいてくる頃っていう意味だそうですが、日々あおあおとした
緑が目にみえて濃くなっていくのがよく分かります。
]]>
「日本で最も美しい村連合」に加盟しているという若狭湾西端の漁村です。
・
・
大阪から特急で福知山まで1時間半、そこから丹後鉄道に乗り替えて天橋立まで約1時間
天橋立からは、バスで海岸線を約1時間走りました。(一時間乗車しても400円でした)
・
・
舟屋は江戸時代の中期(1700年代)前後から存在していたそうですが、現在のように
木造2階建てになったのは明治から昭和の初期にかけてのことと聞きました。
・
伊根に何故舟屋のような家並みができ、現在まで引き継がれているのか調べてみました。
・
青森の友達から弘前の桜が満開だという便りが届きました。
去年、念願だった「ヤマシャクヤク」の苗を2株植えたのですが、夏の日照りに不注意
にも枯らしてしまいました。
そのヤマシャクヤクが今春芽ぶき、30センチ位の高さまで成長して蕾をつけたのです。
何時咲いてくれるのか毎日観察しきり。
ついにこの4月、真っ白の清楚な花を咲かせました。見てください!
・
・
・
すだれが写ってしまいましたが、この夏は日陰を作ってやろうと今から準備しています。
京都の美山にはこのヤマシャクヤクの群生地があるとか一度行って見てみたいですね〜。
・
・
・
・
数年前、万博公園の山野草展で、エビネを二鉢買い求めました。
蘭は華やか展示場などにはよく似合うのでしょうが、エビネに華やかさはないですね。
ひっそりと山陰に咲きます。
かっては落葉広葉樹林に群生していたそうですが。
立ち上がった花茎に唇弁の形をした花を沢山つけます。根が偽鱗茎という球根です。
10個程連なっている姿がエビを連想させるのでこの名がついたと聞きました。
・
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去年株分けしたものもちゃんと花をつけましたよ。
・
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・
ホウチャクソウ
・
・
・
ホウチャクってお寺の屋根の先についている宝鐸(ほうちゃく)の形をしています。
薬用にも食用にもなるアマドコロに似ているそうですが、こちらは食用にはなりません。
むしろ食べると吐き気やめまいがするといいますから毒草になりますね。
林床の暗いところを好むそうですから、我が裏山の環境には合っているのでしょう。
花の先端が緑色の可愛い花です。
・
・
・
・
・
・
目を上に転じますと、今年は藤が見事に花房をつけています。
山藤かと思っていたのですが、花序の長さが40センチ以上ありそうですからこれは「藤」ですね。
もみじの木に絡みついてずいぶん高くまで上っています。
房の先が細くなっているところも山藤と異なるところだそうです。
(山藤は花序が20センチくらい、上から下までまとまった房になる)
・
・
・
新緑のもみじの中で藤色が冴えます。優しい色です!
2階のわたしの部屋の窓から手を伸ばせば届きそうなところに咲いているので、蜜を求めて
飛び回るミツバチの羽音もよく聞こえます。
・
・
・
・
・
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最後にチョット珍しい花のご紹介です。
親しい友人が持ってきて植えてくれたのですが、ご覧になったかたは少ないのではないかしら?
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餅雪草、(ゆきもちそう)といいます。
仏炎という紫色の受け皿の中に、真っ白のまん丸いものが立ち上がっています。
触ってみたことはないのですが、半分に切ると発泡スチロール状になっているとか。
虫の好む匂いを出して、虫を花の奥へ誘い込むそうです。雌雄異株です。
球根は分球しないので、実生から増やすしかないのですが、我が家にはこの株一株。
当分このまま我慢ですね。
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「これは外来種ね」と思いそうですが、実は原産地は日本だといいますから驚きです。
日当たりの良くない樹林の下を好むそうです。雨にも弱いとか、絶滅危惧種です。
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「たのしみはあさ起きいでてきのうまで なかりし花の咲けるをみるとき」(橘曙覧)
という短歌があるそうですが、裏山が今まさにその状態です。ではまた。
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東塔、西塔のところで大事なことを書き忘れていました。この二つの塔、共に
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玄奘三蔵という方は、中国の冒険譚「西遊記」のモデルとなったお坊さんと言った方が
馴染み深いかもしれませんね。
玄奘三蔵は27歳の時(629年)、当時はまだ中国には伝来していなかった経典を求めて
天竺(インド)へと旅立たれています。
タクラマカン砂漠を歩き、厳寒の天山山脈を越えるという過酷な旅でしたが、インドでは
唯識学を学び、インド各地の仏跡を訪ねています。
17年の求法の末に仏像、仏舎利、仏教原典をかかえて唐の都長安に帰国されたといいます。
帰国後残りの人生をかけて翻訳されたのが「大般若経」です。仏教興隆の基礎となった教は
やがては法相宗として大成しました。
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日本で法相宗の大本山である薬師寺は、玄奘三蔵の遺徳顕彰のため平成3年にこの廟を建立。
中には玄奘三蔵の像と頂骨が祀られています。
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八角形の伽藍は、大変美しい形態(構造)で、法隆寺の夢殿を思い出しました。
正面の「不東」という二文字をご覧になれますか、経典を手に入れるまでは、東には決して
は帰らないという玄奘三蔵の堅いご意志を表した言葉だそうです。
文字は高田好胤さんの筆になります。
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伽藍の後方に大唐西域壁画殿がありました。
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平山郁夫画伯が玄奘三蔵が旅された現地をを訪れ、17年の旅を追体験して描かれた
壁画七面が展示されていました。(この写真は薬師寺のホームページあったものです)
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好胤さんが少年時代、父上の死という不幸があり、薬師寺の橋本凝胤さんの元で養育される
こととなり、厳しい修行を体験されたようです。
1949年には薬師寺の副住職に就任されていますが、当時の薬師寺は老朽化が進み、荒れる
一方であったことは前回書きましたが、その中にあって「仏法の種をまくことが自分の使命」
であると考え、修学旅行の生徒たちには解りやすい法話に力を入れられました。
ユーモアに富んだ法話は「青空法話」と呼ばれ、600万人もの生徒が聞いたといいます。
1967年に管主になられてからは、「金堂」の再建を志し西塔、中門、回廊へとその事業
は広がっていきました。高田好胤さんが進められた資金集めの方法は百万巻写経勧進という
やり方です。全国の篤志家の人々から一人1,000円の写経納経の供養料を集める勧進です。
今回もブログを訪ねてくださりありがとうございます。
天武天皇が皇后の病気平癒を願って建てられたという寺院です。
大阪市が美術館の構想を発表したのは、1983年だそうですからもう40年以上
の刻を経たことになりますね。早速行ってきました。その報告です。
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美術館は、その名が示すとおり大阪は中之島にあるのですが、大阪市役所を左に見て
堂島川に沿って西へ10分程進んだところに位置しています。南隣は国際美術館です。
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なんと目の前に広がる、漆黒の立方体のような建造物にまず驚かされました。
美術館というくらいですから、光あふれるような建物をイメージしていたのですが・・
いきなり先入観をはぐらかされた感じです。
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館内案内によれば、4・5階が展示場。3会階は収蔵庫
1・2階は、春からカフェやレストラン・インテリアのお店がオープンの予定。
外部の広場と継っていて、美術館入場者以外の誰でも自由に通り抜けできる。
(パッサージュと言う)
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以下は美術館のホームページにあったことを少し纏めてみました。
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昭和58年に、大阪市100周年事業の一つとして美術館構想が生まれた。
大阪の実業家「山本発次郎」氏が個人所有の美術作品を大量に、大阪市に寄贈された
ことも大きな動機づけになっている。
・ 佐伯祐三 郵便配達夫 1928年
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・ 佐伯祐三 レンガ焼き 1928年
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・ 白隠法師 大黒天鼠師槌子図 1764〜68 年
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北陸出身のかたでしたら、ご存知と思うのですが。お寿司ではありません。
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冬に美味しくなる蕪に、塩漬けしたブリを挟んで、米麹から作られる甘酒につけ込んで
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朝の散歩道では、田んぼのあぜ道に「ホトケノザ」が咲いているのに出会えます。
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不思議に思って調べてみましたら、日当たりの良いところでは秋にも咲くという説明。
日本で二番目に大きいとされる誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と日本武尊白鳥陵へ
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古墳時代は前期・中期・後期の3期に分けられますが、大規模な古墳は奈良盆地から
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みんなの体操が始まったのは1999(平成11年)のこと。
高齢者に負担が少ないように運動量が抑えられているそうです。
それに加えて、椅子に座ったままでの運動が考案されています。
友達に誘われて行ってきました。(10月10日まで開催)
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