聖徳太子御廟と叡福寺

0

     

    聖徳太子のお墓へ行ってきました。

    大阪府南河内郡太子町にあります。(近鉄長野線・貴志駅からバス・太子前下車)

     

    聖徳太子磯長御廟について

     

    磯が長い、と書いて「しなが」と読みます。

    この辺りは蘇我氏ゆかりの地ですから、蘇我氏の血を引く太子が葬られたのでしょうね。

     

    太子墓は、径50メートル、高さ10メートルの小高い円墳です。

    内部は精巧な切石を用いた横穴式石室になっています。

    太子と太子の后・膳部郎女(かしわべのいらつめ)と母の間人皇后(はしひとこうごう)

    の3人の石棺が収められているので、三骨一廟と呼びます。(太子町ホームページより)

     

     

    午前中に見た仁徳陵のスケールとは比較になりませんが、太子が亡くなったのは、

    西暦622年のこと。古墳時代はすでに終わりをつげ、飛鳥時代へと変遷してから

    のことです。(円墳であることに驚きました。)

     


     

    江戸時代までは、参拝のために石室まで入られたそうですが、明治になり入場が

    規制され明治12年に修復調査がされた時、横穴入り口はコンクリートで固めて

    しまったため現在は封印の状態です。(入り口には立派な扉がありますが・・)

    結界石490本が2列に並んで墳墓を取り巻いていました。

     

     

     

    叡福寺について

     

    叡福寺というのは太子の死後、推古天皇が墓守の住む堂をたてのがその始まりだそうです。

    織田信長の兵火で一度焼けていますが、豊臣秀頼が伽藍の再興をしたと説明にありました。

     

    広い境内には、多宝塔、金堂、聖霊殿、御堂、浄土堂、念仏堂などが整然と並んでいます。

     

     

     

    伝説では太子は「黒駒」という名馬をもっていてその馬で富士山を駆け上り、都まで戻る

    のに3日しかかからなかったとか。

    その富士山と太子の絵の複製が、金堂の前に掲げてありました。

     

    多宝塔(国の重要文化財)

     

     

    これは入り口の南大門におられた仁王様です。

    門の大きさに比較して、一寸貧弱、もしかすると像は古いのかも知れません。

     

    御廟前の像(天のお一人)、こちらは色鮮やか、新しいものなのでしょうね。

     

     

    感想

    聖徳太子といえば、古代史の中では最も有名な人物。

    倭国が豪族による連合政権から律令国家へと生まれ変わる過渡期の時代にあって

    遣隋使を派遣するなどして国内の制度を整えることに邁進していた聖徳太子。

     

    この時代の歴史本を読むと、太子にまつわる秘話が沢山書かれていて面白いですね。

    用名天皇の正統な皇子であった太子が、何故摂政という立場で推古女帝を支えたのか?

     

    学校では習わなかった太子の国際感覚(太子の家庭教師は高麗人)韓国語や中国語を

    自由に操っつたという才能など知れば知るほど惹かれます。

     

    次は飛鳥板葺宮後など尋ねてみたいと思ったことです。

     


    | 1/6PAGES | >>

    プロフィール

    profilephoto
    名前を遊山といいます。   大阪府の北部に住んでいます。 京都にも近い山間部です。 近くには安威川が流れています。 川向うは高槻市になります。
    福祉施設の現場や学校などで介護を中心に60才まで就労しました。 今は家人と晴耕雨読の生活です。 ブログでは裏山に自生する植物や野鳥のこと、加えて地域の行事や小さな旅行など 紹介できたらと考えています。

    最新の記事

    カテゴリー

    recent comment

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode